恒星樹海アルキュオネ

銀河の北縁、「沈黙領域」と呼ばれる宙域があった。 そこでは通信が届かない。 電波も重力波も、ある距離を越えると霧のように減衰してしまう。 恒星は存在する。 惑星もある。 だが文明だけが存在しない。

少なくとも、そう考えられていた。

外宇宙探査艦エリダヌスは、その沈黙領域へ向かっていた。 全長八キロの細長い船体は、恒星間塵を避けるため針のような形状をしている。 乗員はわずか十二名。 長期航海用に遺伝子調整された少数精鋭だった。

艦長のレウは、窓越しに黒い宇宙を眺めていた。 恒星は遠い。 銀河中心の光さえ霞み、宇宙は深海の底のように暗かった。

「沈黙境界まで二時間」

航法士ネミが告げた。

彼女は人類ではない。 薄い膜状の皮膚と、六本の指を持つ低重力種族だった。 人類連邦は、百種以上の知的生命と緩やかな同盟を築いている。 だが沈黙領域だけは、どの文明も避けていた。

理由は単純だった。

帰ってきた船が存在しない。

エリダヌスは、その最初の例外になるはずだった。

やがて前方空間に、奇妙な歪みが見え始めた。 ガラス越しに水を見るような揺らぎ。 宇宙そのものが震えている。

「境界接触」

通信士が報告する。

その瞬間。

全通信が消えた。

恒星観測網。 量子同期。 遠隔ビーコン。 すべて沈黙した。

エリダヌスは宇宙から切り離された。

しかし異常はそれだけではなかった。

前方に、巨大な構造物が現れた。

誰も声を出せなかった。

それは樹だった。

宇宙空間に浮かぶ、恒星規模の樹木。

幹は惑星軌道ほど太く、枝は数光年にわたり伸びている。 表面は黒い金属光沢を持ち、ところどころに青白い発光体が脈打っていた。

しかも一本ではない。

暗黒空間の彼方まで、無数の巨大樹が広がっている。 まるで銀河そのものが森林化したようだった。

「……生物?」

生物学主任のカイナが呟く。

センサーは混乱していた。 物質密度は恒星並み。 しかし内部には液体循環が存在し、周期的な電位変化まで検出される。

エリダヌスは最も近い巨樹へ接近した。

すると枝のひとつに、都市が見えた。

都市といっても、人類のそれとは異なる。

建築物は存在しない。 樹皮から直接、生えている。 半透明の膜。 結晶状の塔。 脈動する球体。 すべてが有機的に連結していた。

「文明がある」

ネミが息を呑んだ。

だが都市は静止していた。 動くものがない。 灯りも弱い。

死んでいるように見えた。

レウは小型艇による調査を命じた。

調査隊は五名。 樹皮へ降下すると、重力が存在することに気づいた。 巨樹自体が巨大質量を持っている。 足元の黒い地表は、生物組織のように微かに脈動していた。

空を見上げれば、枝が天の川のように広がっている。 その枝の表面にも、別の都市群が貼り付いていた。

「聞こえるか?」

カイナが言った。

遠くから低い音が響いていた。

ドクン。

ドクン。

巨大な鼓動。

樹が脈打っているのだ。

調査隊は都市内部へ入った。

そこには住民がいた。

細長い身体。 灰色の皮膚。 目はなく、頭部全体が鏡面のように滑らかだった。

彼らは微動だにしない。

彫像のように立ち尽くしている。

「死体ではない」

カイナがスキャン結果を確認する。

代謝反応がある。 神経活動も存在する。

だが異様に低速だった。

一回の呼吸に、十五分かかっている。

「時間感覚が違う……?」

その時。

都市全体に振動が走った。

灰色種族のひとりが、ゆっくり頭を向けた。

あまりにも遅い動きだった。 しかしその瞬間、調査隊全員の脳内へ直接声が響いた。

『新しい風だ』

言語ではない。 意味そのものが流れ込んでくる。

『久しい』

レウは応答した。

「あなたたちは何者だ?」

長い沈黙。

いや、彼らにとっては普通の速度なのだろう。

やがて答えが来た。

『庭師』

『銀河を育てる者』

調査隊は都市中央へ案内された。 そこには巨大な裂け目があり、内部に光る液体が流れていた。

それは樹液だった。

だが成分分析結果に、全員が凍りつく。

液体内部に、恒星核融合反応が存在する。

「ありえない」

樹は恒星を吸収しているのだ。

周囲の枝先を見ると、小さな光球が実っていた。

恒星だった。

果実のように枝からぶら下がる恒星。

銀河の恒星は自然に生まれているのではなかった。 この巨樹群が育てていたのだ。

『若い文明は皆、恒星を自然物だと思う』

庭師は語る。

『だが星は栽培できる』

『重力を編み、時間を折り、火を実らせる』

カイナが震える声で尋ねた。

「なぜそんなことを?」

『生命のため』

『宇宙は冷える』

『放置すれば、星は減り、闇だけが残る』

『だから我々は銀河を耕す』

レウは言葉を失った。

彼らは文明ではない。 宇宙規模の農業種族なのだ。

その時。

エリダヌス本艦から緊急通信が入った。

「艦長、外縁部に異常重力波!」

空が暗くなった。

枝の隙間から、巨大な影が現れる。

調査隊は凍りついた。

それは恒星を食べていた。

巨大な球状生物。 直径は惑星軌道規模。 無数の口が開閉し、枝先の恒星を噛み砕いている。

恒星の光が血のように漏れていた。

『害獣だ』

庭師が静かに言った。

『星喰い』

怪物は樹海を移動しながら、実った恒星を次々と食い荒らしていく。 その後には暗黒だけが残る。

沈黙領域の正体だった。

星喰いに食われた銀河域では、文明が育たない。

「戦わないのか?」

レウが問う。

『戦っている』

庭師は空を見上げた。

その瞬間。

巨樹全体が発光した。

枝の中を光が走る。 恒星エネルギーが一斉に流動している。

そして枝先から、光の種子が放たれた。

数百万。

流星群のように宇宙を埋め尽くす。

種子は星喰いへ突き刺さった。

怪物が絶叫する。

その身体から、新しい枝が生え始めた。

「寄生……!?」

星喰いは暴れながら崩壊した。 その内部から、小さな恒星が芽吹いていく。

庭師たちは、敵すら苗床に変えるのだ。

やがて怪物は完全に動きを止めた。 宇宙空間に、新たな光の樹がゆっくり根を広げ始める。

レウは寒気を覚えた。

「あなたたちは、いつからここにいる?」

長い沈黙。

『最初の銀河より前』

調査隊は理解できなかった。

だが庭師は続ける。

『宇宙は繰り返す』

『膨張し、冷え、死ぬ』

『そのたびに、我々は次の宇宙へ種を運ぶ』

レウは息を呑んだ。

「別宇宙から来たのか?」

『そう』

『お前たちの宇宙は八番目』

その言葉に、全員の理解が追いつかなかった。

彼らは銀河文明ではない。 宇宙そのものを渡る農夫だった。

庭師は静かに語る。

『若い宇宙は荒野だ』

『星は少なく、生命も育たない』

『だから我々は植える』

『光を』

レウは突然、恐ろしい疑問に気づいた。

「なら……知的生命も?」

庭師は答えなかった。

だが都市の奥で、無数の透明な球体が脈動しているのが見えた。

その中には胚が浮かんでいた。

人類。

ネミの種族。

連邦に属する多くの知性体。

すべての原型が保存されていた。

『星だけでは宇宙は育たない』

『見る者が必要だ』

『語る者が必要だ』

『だから種を蒔く』

レウの背筋が凍った。

文明は偶然ではなかった。

栽培されていたのだ。

その時、エリダヌス艦内で警報が鳴った。

「艦長!」

「本艦の時間流が乱れている!」

外部時間が加速していた。

モニタには恐ろしい映像が映る。

周囲の恒星が急速に老化している。

赤色巨星化。 崩壊。 白色矮星化。

数十億年分の時間が流れていた。

『季節が変わる』

庭師が言う。

『この宇宙も、そろそろ収穫期だ』

調査隊は青ざめた。

庭師たちにとって、文明の歴史など季節程度の長さなのだ。

銀河文明の興亡すら、一瞬。

『お前たちは若かった』

『よく育った』

その言葉には、不思議な優しさがあった。

レウは尋ねた。

「我々はどうなる?」

庭師はゆっくり枝の彼方を見た。

そこには新しい光の種子が浮かんでいる。

『次へ行く』

『光を持って』

その瞬間。

樹海全体が発光した。

無数の恒星が一斉に枝から離れる。

銀河そのものが花開くようだった。

エリダヌスは光に飲み込まれる。

レウは最後に見た。

宇宙の果てに、黒い壁が存在することを。

宇宙は無限ではない。

巨大な温室なのだ。

そしてその外側に、さらに巨大な影が立っていた。

庭師たちよりも遥かに大きな存在。

彼らが、その温室を覗き込んでいる。

まるで小さな鉢植えを見るように。

レウがそれを理解した瞬間、世界は白く消えた。

後に。

新しい宇宙の若い銀河で、最初の恒星が灯った。

その近くを、小さな種子船が漂っていた。

船名はエリダヌス。

内部では、まだ誰も目覚めていなかった。